学問とビジネス ― この遠くて近いもの
明治大学理工学部特任教授  長岡亮介

【執筆者プロフィール】

  • 長岡 亮介(ながおか りょうすけ、1947年 - )
  • 長野県長野市出身
  • 東京大学理学部数学科卒業
  • 東京大学大学院理学系研究科科学史科学基礎編専門課程単位取得
  • 津田塾大学学芸学部数学科講師/助教授、大東文化大学法学部教授、放送大学教養学部教授を歴任
  • 2009年から明治大学理工学部数学科特任教授
  • 受験数学の参考書、数学教科書、数学の歴史に関する書籍を多数執筆

撮影:河野裕昭氏  

1 気になるいまどきの流行(はやり)表現

「役不足」のような誤用が起こりやすい表現の間違いを指摘するような啓蒙主義の趣味はないが、最近急速に普及している流行の表現の中に、どうにも馴染めないものが少なくない。その一つが、「数字を上げる」とか「結果を出す」である。ビジネスの世界でもスポーツの世界でも、成績をあげることは大切であるから、成績が「数」で表現されるならば、その「数」の増大を目指すのは当然であろうが、「数字」は「数」を表現する単なる文字でしかない。「数学」は「書いたり読んだり」するものであって、「上げ下げ」するものではない。同様に、良い結果が「出る」ように努力することは大切だが、努力がつねに満足できる成果を生み出すとは限らない。結果は「出てくる」ものであって「出す」ものではない。

2 なぜだろう

「数字を上げる」とか「結果を出す」という最近の表現に違和感を禁じ得ないのは、それらの中にどこか、努力や気力という《此岸の力》だけで、掲げた目標が必ず達成出来るという「体育会系的」(あくまで括弧つき)な根性主義、もっといえば、自己の信念の依って立つ基盤に疑問を発する姿勢を失った知的不遜の匂いを感じてしまうからである。他人に真似できない非凡な努力で、凡人が到達できない高い目標を達成した人は、大いに賞賛に値することはいうまでもないが、すべての努力が必ず良い成果で報いられるとは限らない ― この世の暗い真実から目をそむけるのは、子供じみた自己中心的楽観主義というべきではないだろうか。どんなに一生懸命努力しても、かなわないことはある。これが、《不条理》という表現で語られてきたこの世の中の冷酷の宿命destiny であって、生老病死のようなこの宿命を厳粛に受け止めることを忘却してしまったらどうにもならないように思うのだ。

3 学習という奇跡

しかしながら、人間は自他の《経験から学習》する、という奇跡的な能力を動植物の他の種に比べ、はるかに高くかつ機動的に有している。他者の経験というふつうは他人事(ひとごと)と片付けることを我が事に置き換えて理解することによって、一人では考えられない、何倍も、何十倍も、いや何億倍もの経験をしてはじめて得られる叡智(えいち)を自分の中に獲得し、この《自己の飛躍的拡大》によって自己の行動計画を多面的、多角的に検討し、最良の判断、最も合目的的な決断ができるようになる。これが、「学び」、つまり学習という人間的営為の威力であり、これを体系的に万人に保証するサービスが教育とか学校と呼ばれる制度である。教育は、限られた儚い生命を何倍にも輝かせる奇跡を産み出す手段なのである。

4 学校教育の崩壊

しかし、教育機会の普及は、今日の高等教育の状況に象徴されるように、国民的規模での「教育投資金額」は増大させたが、実に皮肉なことに、それが社会の未来への投資になっているようには見えない。我が国ではむしろ、運用に成功していない信託資産のようで、最近は特に目減りが顕著のようである。実際、戦前より「高等教育機関」と呼ばれてきた大学ではあるが、昨今の状況では「高等教育」とは名ばかりで、実際には大衆化でしかないことが多くの人々の目に明らかであろう。最近の大学生の就職活動を見ても、「高等教育」が彼らの生きる世界を拡大したようには見えない。「エントリーシート」とやらを何百通(!)も出す者がいるというニュースを聞くたびに、「1人で何百通もの応募」の社会的な含意を考えたことがあるのかと思ってしまうからである。それが幼稚な若者の切実な気持ちに基づいていると思うだけに、一体、どういう「教育」を受けて来たのだろうと哀しい気持ちになる。

5 生涯学習の今日的意味

大学ですら学生の子供扱いが止まらないいまの日本では、大学を含め一通りの教育課程を終えて社会に出てようやく独り立ちし本当の意味で自分に向かうことができるのかもしれない。たしかに、それ以前は受動的な知識の修得(≒機械的な暗記)以外に勉強の機会は日本では特に少ないので、他者の経験、他者の知恵から学ぶことの重要さに気づくのは難しいのだろう。そもそも、自分なりに新しい局面を打開しようと苦闘を経験した者だけが、他人から学ぶことの有り難さを感ずることができるものである。「あのとき遊んでないでもう少し勉強しておけば・・・ 」という台詞を聞くことは多いが、社会に出て本当に闘っている人にはそんな悠長な後悔の時間すらないはずである。実際、社会人の学習意欲は「書籍が売れない」といわれて久しい現代日本社会にあって、世代別に見て書籍購買水準を維持していることはよく知られるところである。残念なことにいわゆる「ビジネス書」といった流行のノウ・ハウものに目が向くのは、日本の大学までの教育が、人間として基礎となる真の意味で教養を築くUS のエリート教育のようになっていないからであって、我が国のビジネスマンの責任ではない。一部に、自分の過去への後悔を、我が子への過剰な期待(いわゆる「教育ママ」)に転化させてしまう傾向があるのは否定しないが、それとはまったく別のところに「自分だけでは手に入らない経験」や、「自分より一歩、あるいは半歩先を歩いていた人のアドバイス」を通じてこそ手に入れるものの重大な意味、また、そのような得がたい貴重さに気づく成人は少なくないはずである。

6 真に身につく学習の条件

とはいえ、勉強と遊びに集中することができた幼年期と異なり、大人になると学習は容易ではない。まず、 学習の時間が学生のときのように自由にはとれない。多くの人が感じている困難としてもっと決定的なことは、記憶や理解のスピードが鈍ることではないだろうか。たしかに、これらには十分な根拠があることを筆者自身は否認するつもりはないが、このような自分の学習が困難であることの理由は、学習をサボる口実にしかならない。。「ものは考え様」ではないが、時間が足りないのはいうまでもないが、無駄に過ごしている時間がまったくないのかと反省してみると、意外に時間は多いことに気づく。誕生してから二十歳くらいまでの幼年期のあの退屈な時間と、これから自分が逝く日までに残された円熟の日々を比較してみたら、どちらが充実しているか一概に拙論を出すことは難しいのではないだろうか。

新しい外国語の単語や格変化のようなものを覚えるのは、若い時代と比べると難しいのは確かであるが、何も知らない若者が“ How do you do? ”を習ったときの当惑など、とっくの昔に克服できた経験の存在は大きい。

年齢を経たからといって、総合して考えれば、学習への適応能力は決して劣っていないのだ。しかも、決定的な優位として《経済》についての知識と経験がある。学習がコストに対して見合うかどうか、どこに投資するのが最適であるか、・・・を判断する知恵が備わっている、ということである。

「ただで教わる」ことが当たり前であった若い時代と比べ、「自分で払って学ぶ」ことができるのは、何と素晴らしいことであるか!学びへの感謝の気持ちが強いほど学習成果が上がると思うからだ。地位や資格のための勉強でもよいが、もっと大切なのは、気がつかない自分に出会うこと、自分の中に眠っていたまったく新しい可能性を発見することであろう。いろいろな困難、さまざまな障害があるからこそ、それを打破する学びは最高である。万馬券を当てた人の喜びは、他人が見過ごしてしまうわずかな可能性を見つけた代償としての可処分所得の突然の増大であるに違いないが、学習の喜びと本当はどこか似ている。しかも学習の場合は、リスクが極めて小さい。

7 学習とコンサルティング

「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」という言葉があるが、これはしばしば質問の奨励のように誤解されている。しかし、自分で何も考えていない人間が、質問してたとえ正解を教えてもらったとしても、あまり意味がない。そのようなものは本当の意味での学習にはならないからである。

一方、自分1人で考えていると、いくら考えても「にっちもさっちも行かない」というスランプのような曲面にぶつかることが少なくない。そのようなとき、的確なアドバイスは天啓のように暗闇が一気に裂けて、難局を打開できることがある。

そういう役割を果たしてくれる良い指導者(最近はチュータとかメンター、コーチということが多い)に恵まれることは、学習者にとって最高の幸運であるが、コンサルティングにも同様のことがいえるに違いない。お金を支払って「すべてを任せられる」ことが理想的だと思う人が多いようであるが、本当に最高なのは、「一歩先」「半歩先」の経験をアドヴァイスしてもらえるようなケースではないか。そのようなアドヴァイスが輝いて見える自身の日常の研鑽が最高のコンサルティングに恵まれる必要十分条件のように思う。

「人の褌」でうまくいくことは滅多にない。まして「棚ぼた」の話に「泥縄」で飛びつくようでは、展望が開かれることはなかなかあるまい。