何のために働くのか?

彼は某メーカーの首都圏近郊の営業所に勤務するセールスマンだった。営業成績は決して悪くはなく、誰に対しても人当たりが良く、同僚や後輩達からは慕われ、営業所長や課長など上司にはかわいがられ、顧客からも何となく好感を持たれているという、典型的な「要領のいいサラリーマン」だった。

ところが、彼にはひとつ大きな問題があった。彼は「テニスがとても好き」だった。 テニスが好きで何が悪いの? 全然問題無いじゃないの! 確かに一般的にはそうである。ただし、彼の場合は好きさ加減が尋常ではなかった。何と彼は勤務時間中でさえも、客先にセールスに出掛けず、テニスクラブにテニスをしに行く事がままあったのである。 課長は彼の問題ある行動に薄々気付いてはいたが、毎月きちんと売上ノルマを達成し、課の成績に貢献している彼には何も言わず、営業所長にもあえて報告していなかった。課長の立場としては、変に事を荒立てるより、コンスタントに成果を上げる彼の存在をキープしておきたかったのである。要するに、課長もまた、要領のいいサラリーマンだった。

その日、彼は勤務時間中であるのにも関わらず、いつものテニスクラブでテニスをしていた。よくある都市郊外型のテニスクラブであり、クラブの敷地を広く囲むふんだんな樹木が、そよぐ風に揺れていた。彼はゲームの合間にコートサイドのベンチに腰掛け、汗を拭きながら、ふと空を見上げた。初夏のこの季節、「暑い」と「涼しい」の中間感覚の微妙に気持ちの良い風が彼のまわりを吹き抜け、ふと朦朧とした瞬間、青空に溶け込む白い雲の流れが彼の目に入った。 「あぁ?まるで夏の北海道みたいだなぁ・・・」

 その時! 彼は一瞬時間が止まったかのように感じ、そして視界がフェードアウトするのを感じ、そのまま眠るかのごとく意識を失った。彼は夢を見た。彼が学生時代を過ごした北海道の夏の数々のシーンが、脈絡なく走馬灯のように夢の中を流れていった。「高く青い空に流れる白い雲」「乾いたクレーコートに落ちる汗」「土に汚れた黄色いボール」「酒と涙と気のおけない仲間達」そして、「テニス・テニス・テニス・・・」やがて間もなく、何事もなく彼の意識は覚醒したが、しばらくは正気に戻れなかった。そして、その日はそれ以上何もする気になれず、テニス仲間の心配をよそに、そのまま職場にも戻らず、ふらふらと帰宅してしまった。

 その日以来、何をやっている時も、彼の頭からは「テニス」が離れなくなった。 自分はこのままで良いのだろうか? たった一度の人生、本当にこれで良いのだろうか?  自分が本当にやりたい事は何だろうか? やっぱり、それは「テニス」なんじゃないのだろうか? そうであれば、自分は人生をテニスに捧げなければ、後で絶対に後悔する事になる。

 人生をテニスに捧げる事は、「楽で楽しい道」なのか? それとも「辛く厳しい道」なのか? 彼は悩んだ。本当に悩んだ。しかし、後から考えれば、この時すでに結論は出ていた。 要領のいいサラリーマンを演じ続ける事は、楽ではあるけど、もう限界! いい加減に疲れた。

 間もなく彼は会社を辞め、現在はフルタイムのテニスコーチとして、毎日テニスコートに立っている。職場の施設はインドアコートであるため、実際の空を見上げる事はできないが、彼の目の前にはいつも夏の北海道の高く青い空が広がっている。楽しくもあり厳しい天職に就き、彼は今、充実したライフワークを過ごしている。

  ---------- 閑話休題 ----------

 さて、ここで紹介したストーリーは、まったくのフィクションであり、非常に極端な話かもしれませんが、我々のビジネスの世界でも同様の事は少なからず起こり得ます。「退職」「転職」「起業」など、現役の社会人にも種々のきっかけにより転機を迎える人が多くいます。

 前述の「テニスコーチ君」のように、業種と職種を変え、純粋な気持ちから職業に人生を捧げる人は数少ない極端な例かもしれませんが、自分自身の強い思いから、この機会に思い切った転機の判断をする人も多くいる事でしょう。が、しかし、当然それに際して犠牲にするものも多くあり、そのバランスに悩む人も多くいる事と思います。おそらく「テニスコーチ君」も、多くの関係者に迷惑をかけ、その犠牲の上で、彼自身のライフワークを手に入れた事と思います。

 結局のところ、自分が一番大切にしているものは何か? 「テニスコーチ君」の場合は、それが「テニス」だったわけですが、我々のビジネスの世界では、多くの場合もう少し複雑で、自身のキャリアアップも含め、利害関係や打算も絡み、そこに個人的事情も加え、悲しいかな、まったく品の無い顛末となる例を聞く事もあります。

 自分の一番大切にしているものは何か? おそらく最後には「何のために働くのか?」という疑問に到達するはずです。正解が無い問いかもしれませんが、その答えは自分で導き出すしかありません。

 テニスの世界の有名な言葉をひとつ紹介します。 「人はそのテニス以上の人格を持つ事が出来ない」 

 ビジネスの世界で生きる人達も、この言葉の「テニス」の部分を、自分が関わる「責任」とか、「役割」とか、「存在」とか、「期待」とか・・・・・ 何か、そんなキーワードに入れ替えて考えてみてはいかがしょうか。もしかしたら、「何のために働くのか?」のヒントが見つかるかもしれません。

コラム担当:
小西 洋史

※執筆者の所属は執筆当時のものであり現在とは異なる場合があります。